いのちの食べ方

一昨日の夜から昨日にかけて、山形に帰っていた。
一昨日の夜9:15〜が最終上映になっていた「いのちの食べ方」を観るため。
先週の日曜日の朝、これを観るために山形に行ったのに満席で入れなかったので、最後のチャンスだったのだ(で、その時は結局「スウィーニー・トッド」を観たのだが、出来は・・・・なものだった。どうしたんだティム・バートン。)。
まさか、地味なドキュメンタリーに日曜の朝から観に来る人がそんなにいるとは思わなかったので、油断してギリギリの電車で行ったのがまずかった。でも考えてみれば、朝10時と夜9時の2回だけの上映で、しかも上映期間は一週間なのだから、そりゃ休みの朝に集中するわな。
私の少し前に映画館に来ていた親子連れのお母さんの方が、子供に「ほら、満席だって」なんて言っていたから、教育目的で観に来る親子連れも多いのかもしれない。だとすると、なおさら土日しかないよね。


映画の席は、無事取ることができた。
(小さいスクリーンだということもあるが、)この回も満席になって、さらにこのときは通路に椅子も出ていた。普段はそんなことしないんだけどね。最終上映ということもあって、映画館側が配慮してくれたんだろう。先週の日曜にもそうしてくれていたら、とは思いませんよ。消防法等のことを考えれば本当はできないであろうところを、最後のお客のために無理してくれたのだろうから。
今までも最終上映の夜の回にこのスクリーンで映画を観たことがあるけど、こんなふうに満席で椅子まで出たことはなかった気がする。時間と期間が限られているとはいえ、そんなに積極的に宣伝されているわけでもない地味なドキュメンタリー作品にこれだけお客が集まるのは、やはり山形にはそれだけ(ドキュメンタリー)映画ファンがいるということなのかなと思う。映画館側もうれしいだろうね。


とまあ、この映画を巡る状況を書いてみたけど、実は私、上映中に寝てしまいました・・・。(恥)
決して映画がたいくつだったとか、つまらなかったとか言うわけではない。逆に、かなり刺激的な映像が多く、しかも非常に研ぎ澄まされた感覚で編集された映画だと思う。
ただ、ここ最近寝不足だったのよ。しかもこの映画、映像だけで、音楽もナレーションもないから(←言い訳)。途中からやばくなってきて、ときどき集中力がふっと切れて映像が飛び飛びになっていたのだが、ふと気がついたらちょうど上映が終わったところだった。
したがって、どのくらい見逃してしまったのか自分でもわからないのだが、たぶん2/3は観たんじゃないかと思う。(^^;


そんな限られた中からの私の感想を簡単に。
まず説明すると、先に述べたように、この映画には音楽もナレーションもない。ただ、様々な食糧の「生産現場」が、連続性もなく、場面を切り替えつつ、淡々と映し出されるだけ。それは、ヒヨコの選別の場面であったり、つり下げられた豚肉が腹を切られて内蔵を取り出されるという流れ作業の場面であったり、ジャガイモ畑で大量のジャガイモが機械的に収穫されている場面であったり、本当に様々。
ただ、映像だけであるがゆえに、観る人の興味をどう引くかということについて、非常に考えられた映像だと感じた。場面が切り替わってすぐの時点では、映っているものが人工的でおよそ食糧とは結びつかない感じのものであることもあり、何が映っているのかがよくわからない。しかししばらく見ていると、そこに何が映されていて、監督が何を見せたいのかが次第にわかってくるのだ。観ていると、「次のこれは何なのか?」という興味を喚起される。
興味を引く編集のうまさとともに、一目観ただけではわからない、現代の食糧生産現場の複雑さにも気づかされた。
そして、決して告発や非難めいた、もしくはウェットな映像は出さない。ドライであるがゆえに、単純な「かわいそう」とか「こんなことをするなんて、なんて酷い人たちや会社なんだ」という感想には至れない。
だって、他人事のように「かわいそう」という感想をもったとしても、現実の食糧はこういう現場で生産されているのだから。その恩恵を受けて、食べ物を口にしている人が、無関係な顔をして非難していればいいなんてことはない。
私自身、自分の「食」について、それに、「モノ」と「生き物」の境目ってなんだろう?ということについていろいろと考えさせられた作品だった。
残念だったのは、かなり解像度の低いビデオ撮りだったことか。
衛生的な問題もあるだろうし、撮影状況や手間を考えると致し方ないのかもしれないが、非常に考えられた構図の映像だっただけに、これがフィルム撮りだったらすごくきれいだったろうになあ、なんて思いつつ観た。
と言いつつ、寝たんだけどね。(^^;