誰も知らない

「誰も知らない」を観てきた。もっと早くに観に行くつもりだったんだけど、結末も、悲惨だということもわかってるものを観に行くのはなかなか気が進まなくて。映画が始まってからも、状況は悪くなるばかり(良くはなりようがない)なのだから、ずっと胸が潰れそうな思いで観ていた。
ただ、映画自体は実はほのぼのとした描写を所々に挟みつつ、淡々と進行していた。自分は物語の展開に過剰に反応しすぎていたかも。
これを観て感じたのは、消費していかざるを得ない社会の哀しさみたいなものだった。物語が始まった頃のこの一家は、別に貧乏というわけではないんだよね。母親が働いていたからそうなんだろうけど、新しそうな冷蔵庫やテレビゲームがあって、みんなそれなりに服を持ってるし収納もある。この後どういう展開になるか知っている観客の身からすると意外なくらい、物をもっている普通の家庭だった。
これが以前からもう少し困窮していたら、話はまた違っていたかもしれない。でも、この生活レベルだったら、子供達は「買って生活する」しか生きる手段がないだろう。新たにお金が入ってこない以上、今ある金を切り崩して生活していくほかないのだが、そうすることで「消費すること」と「生きていくこと」の関わりがどんどん切実になっていく。
その象徴となっているのがコンビニの存在だと思う。始めはスーパーで買い物をしていた長男が、いつの間にかコンビニで全ての買い物を済ませるようになっていた。兄妹が初めてみんなで自由に外出したときの一大イベントはコンビニでの買い物だったし、次女の様子の異変に気づいたときに熱冷ましのシートを買いに行ったのもコンビニだった。同じ買うという行為でも、コンビニでの方がより短絡的で即時性がある。それが、彼らの一日一日を生きていくという行為と重なって見えた。それに彼らにとっては、コンビニで買うことと売れ残りのおにぎりをもらうことが、社会との唯一の関わりだったのだ。
コンビニには何でもあるけれど、スーパーより高い。私は貧乏性なので、ドラッグストアやスーパーで買った方が安いのに〜なんてアホなことを考えてしまっていたんだが、たぶん、しょうがないんだよね、この子達にとって消費するとはこういうことなのだ。だって、他の人にとってもそうなのだから。


わざと素人のような芝居をさせて「ドキュメンタリー・タッチ」で撮る是枝監督の手法は嫌いだったんだが、今回はそれがすごくいい方に転んでいたと思う。始めの一家団欒のシーンの時点で、子供達のまるで芝居っ気の感じられない自然な笑顔にびっくりした。これを撮れるようになるまでにはさぞ時間がかかったろう。その子供達の反応を全て受けとめるようなYOUの芝居もさすが。下手に台詞でがんじがらめの役者だと、絶対不自然になっていたはず。
一年というスパンで撮ったのも正解だった。映画の中で、子供達が成長して顔つきが変わっていくのが見ていてわかる。長男の変声期に長女が「風邪ひいた?」と聞くシーンや、次女をスーツケースに入れようとしたけど入らなくて「背、伸びたね」というシーンにはドキッとした。この子達は本当に成長しているのだ、という実感と、それだけの月日が過ぎ去ってしまったという事実の重み。これは、芝居や風景の描写だけでは絶対に出せない真実味だと思う。