ドッグヴィル

DOGVILLE

ドッグヴィル」を観てきた。ラース・フォン・トリアーの最新作。
アメリカのドッグヴィルという村が舞台なのだが、ここでは、そのほぼ全てが平面にチョークで線を引いただけの領域で表現されている。壁も(商店を除いては)ドアも取り払われ、ドアの開け閉めはガチャ、という音によってのみ示される。村で飼っている犬もチョークの輪郭と鳴き声だけの存在。小物も最低限必要なもの以外は置いていない、光も人工光、その光線の加減もあってか、広めの舞台といった趣だ。


ストーリーは、閉鎖的な社会によそ者が闖入する。始めはよかったが、あとになって段々と彼らとの関係がおかしくなってくる、というわりとありがちなもので、ラストを除けば話の展開に観る側の予想を裏切るようなところはない。ただしここでは余計な物がないぶん、人間の行動、営みのみがクローズアップされる。その分、その行動の凄惨さがよりダイレクトに伝わってくる。


チョーク舞台の効果はそれだけではない。舞台装置が最低限であるのみでなく、この映画では出演者にも余計な芝居はさせない。普通の映画や舞台なら登場人物の深い心象風景を役者の演技や台詞で表現して観客に読みとってもらおうとするところを、ここではほぼ全てナレーションで説明してしまう。これには、観客の視点も時々の印象も全て監督がコントロールしてしまおうという意図が感じられる。よく、アニメは実写と違って監督がほぼ全てをコントロールすることができるのがいい点だと言われるが、それをもし実写でやろうとしたらこういうことになるのだろうと思われた。見せたくないもの、聞かせたくないものが始めっから存在しなければ、観客は嫌でも監督の提供する視点に甘んじるしかない。


うまいことを考えたものだと思う。同じ手は二度は使えないだろうけど。
そして、最後の最後になって、それまでチョークの存在だった犬がリアルな姿を見せる。そのとき、それまで虚構に見えたチョークの世界全体がリアルさを獲得するのだ。
うーむ、うまい。思わずうなってしまううまさ。
しかし、自由な視点を許されないというのは思いの外疲れることなのだった。イノセンスとは全然違う、むしろ真逆な映像表現なのに同じくらい疲れてしまった。(^^; 映画の中には「傲慢」という言葉が何度もでてくるが、(監督というのは全てをコントロールしようとする存在であるということをわかった上で言うけど、それでもやはり)この「完全に」コントロールしようとする監督の姿勢こそ傲慢なんじゃないかと。それに、いかにも俺ってできるだろと言いたげな作為的な演出は鼻につく。だから、よく考えたな、すごい、とは思う、認めるけれど、この映画を好きにはなれないな。


ところで、壁のない舞台、主人公のよそ者は美人の女性、という設定でこの監督だったらきっとあるだろうなと思っていたシーンがやっぱりあった。SEXシーン。しかもレイプ。下半身のケツまるだしで犯ってる男の後ろ姿の手前には、普段と変わらぬ人々の生活する姿があった。もちろん誰も気づかない(本当は、壁があって見えていないはずなのだから)。この舞台の意図を実感する強烈な場面だが、これを撮影しちゃうってがすごいわ。監督の底意地の悪さがうかがえるよね。