イラク−ヤシの影で (オーストラリア/2005/ウェイン・コールズ=ジャネス)

米軍のイラク攻撃1ヶ月前にバグダッド入りし、開戦前後の市民の表情を捉えた作品。
カメラは、攻撃の4週間前、2週間前、1週間前、5日前、4日前、1日前、3時間前、と、だんだんとリミットが迫っていく様子を追っている。
そこに映っているのは、平和を願い、陽気で文化的で意外と開放的(?)な(グラビアもどきの表紙の雑誌が売られていたり。あと、女の子がみんなおしゃれで美人!)人々の姿だ。大体、映画の最初の方で登場する女子校では、キリスト教徒とムスリムが席を並べて、英語で、攻撃を受けたときの*1応急処置を習っているのだから、この時点ですでに単純な二分法は不可能なのだ。
道ばたの本屋や個人宅に並ぶ西洋文学の本を眺める人々、カフェで詩作談義に興じる老人達、パソコンでゲームにいそしむ子供。みな普通の生活だ。
そして意外なくらい、アメリカによる攻撃予定という状況が冷静に受けとめられていた。グローバルな情報化時代、我々がニュースで目にするのと同じようなことを当事者のイラク人たちも知っていて、それについて冷静な分析を行っていたとしても当然のことなのかもしれない。そのことに初めて気づかされた。
これを見て思う。今までの私達の周囲にあったイラクについての報道は、あまりにもイラク市民という存在を見くびっていたのではないのかと。
さすがに開戦直前になると多少きなくさい感じはしてくるが、それでも市民生活は普通に営まれていた。
それが、爆撃で一変する。
市中への爆撃の映像は、あの平和な生活が一瞬で壊されていくと思うと涙なしには見られなかった。現場では、がれきの山に生き埋めになった人たちを、近所の人々や消防が必死で救出しようとしている。でも周囲の建物が攻撃で壊れやすくなっていて、それすらままならない状況。
患者を追って病院に行くと、医者が言う。「ここへ来た外国のジャーナリストはあなたが初めてだ」と。
欧米や、それにのっかっているだけの日本のメディアの言う「市民の犠牲○人」というニュースの重みを、伝える側も聞く側も、果たして考えたことがあるだろうか。「犠牲が出るのは仕方ない。戦争とはそういうものだ」というわかったような言説は、そういう状況から目をそらさなければ(もしくは無知でなければ)言えない言葉だと思う。
そして思うのだ。「サダム万歳!」と叫ぶ人々と、「ブッシュ大統領!」と叫ぶ共和党支持者たちに根元的な違いはあるのだろうかと。
監督は一端オーストラリアに戻った後、新イラク政府が成立したのを機に再びバグダッド入りする。そこにあったのは、すっかり壊された街の中で、米軍兵士の監視するものものしい情景と、家や仕事や家族をなくした人々の姿。
この時監督は、米軍の装甲車に乗せてもらって、兵士にこの任務は危険かとインタビューしている。彼はこう答えていた。「最も危険な部類の一つだ。敵がいつどこから攻撃してくるかわからないから」。しかし、敵って何だろう? 穏やかだった街をこれだけ破壊して憎しみの感情を広げておいて、それに対する報復を考えたら皆敵なのかと。今現在よく言われているが、これは米軍は当初から、自ら底なし沼にはまっていっていたとしか思えない。


上映後の質疑応答で、監督は、西側のニュースには「ジハード、ジハード、ジハード」と叫ぶ人々の短い映像しか映らないのに違和感を持ち、普通の市民の生活を記録するためにこの映画を製作したと言っていた。映画には映っていないが、実際には旧政府、新政府ともかなり監視は厳しかったそうだ。スパイと間違われて逮捕されたこともあったらしい。
だから、ということもないが、この映像はある一面でしかない。そして、西側メディアの流す映像もある一面であることに変わりはない。しかしながら、多面的なんてものは結局のところ複数の一面の総合体であり、それを組み立てるのは受け手自身なのだ。
私は政治的な熱さはもっていないから、あまり政治的なことは言いたくないが、これは一度は見ておいた方がいい作品だと思う。そして、アメリカ人に見せたいと思う。
質疑応答の時、観客の中に神奈川の逗子市の市長がいて、普通にそう名乗って質問していたのでちょっとびっくりした。質問の前に、軽い感想として、米軍住宅地のある自治体の市長としてとても興味深く見た、と言っていたな。

*1:この辺が時勢を反映してるよね・・・