イノセンス再び その2

ネタがないので、昨日のに追加で素朴な疑問系。
劇中に何度も


落 一 棚 生
落 線 頭 死
磊 断 傀 去
磊 時 儡 来


という詩が出てくる(2回目の鑑賞でやっと壁に赤い文字で書いてあるのにも気づいた)。2ちゃんのスレによるとこれは世阿弥能楽書「花鏡」にある一節で、「一旦死が訪れると、あたかも棚車の上のあやつり人形が糸が切れればがらりと崩れ落ちるように、一切が無に帰してしまう」という意味であるらしい。意味が分かってみると、これってこのストーリーそのものじゃないの。なるほど。
しかし、これって英語版ではどう表現されているんだろ?
確か最初にこの一節が出てきたときにはトグサが読んでいたような気がするが、それを翻訳してしまったら原典からの言葉を用いて「引用」している意味がなくなってしまう。しかもこの場合たぶん翻訳=意味の説明になるが、それをしてしまったら無粋だし興ざめだ。漢文を読むときは、日本人にとっても、一度読み下して意味をとるという二段階の作業を要するわけだが、そこをすっとばして平易な言葉でこの詩を「読ん」でしまったら、古典は意味を成さなくなってしまう。
考えてみれば古典の翻訳に関するこういったことは日本語→英語に限らずどの言語間でもありうる問題だろう。が、中国語を無理矢理日本語化している漢文はそういった言語の中でも特異なアイテムに思える。漢文をそのままのニュアンスを保ったまま翻訳するのはやはり不可能なのかな。
それともう一つ。スクリーンにはこの言葉が何度も出てくるわけだけど、漢字文化圏以外の人はそのことに気づけるんだろうか。漢字がこれしか出てこなければ気づくのも簡単なんだが、他にも中国語の文などが出てくるので、個々の文字を識別できないと気づくのはたぶん無理なんじゃないかと。それとなく書いてあるのに、気づかせるために字幕なんかを入れてしまったらそれこそ無粋だしねぇ。
ま、確かどこかでは英語版もすでに上映されているので、それを見られれば疑問は解決するんだろうけど。


心配なのは、やはりカンヌで欧米人がどう観るかということだったりして。(^^; こういうところに気づく(日本人ならその場で即意味はわからなくても、存在には気づくだろう)と気づかないとでは感じ方に差がでてくるだろうからなあ。いや、そんなの針小棒大だってことはわかってるんですけどね。